事故当時の記憶

 その日は息子と次女、そして私の母親と一緒に、日帰りのバス旅行に出かけていました。午後4時30分頃にバスを降り父親に車で迎えに来てもらったのですが、途中から渋滞が始まりなかなか進みません。家に向かう道路はバイパスへの入り口に繋がっており、平日の通勤時間帯にはいつも渋滞するのですが、土曜日に渋滞するのは珍しい上に、普段よりも渋滞距離が長く帰宅したのは5時15分頃でした。後で知ったのですが、その日は近くのゴルフ場でレディースカップの大会が行われており、観客の帰宅時間と重なったために渋滞がひどかったようです。

 帰宅してすぐ、息子が中型犬、次女が小型犬を連れ、散歩に出かけました。5分程経った頃でしょうか。インターホンが慌しげに何度も鳴らされ出てみると、近所に住む友人でした。
友人は叫ぶように言いました。「たいちゃんが轢かれた!」 私はサンダルをつっかけ友人の後を走りました。走れば1分程で着く距離です。
 渋滞車の間から息子がうつぶせで倒れているのを目にしました。抱き起こそうとしましたが横に立っていた3人の男性に、「動かさない方がいい」と止められ、息子の顔を見た私は、瞬間的にもうだめだと思いました。
「あの車が轢いたんや」と指差され振り返った場所には、汚れた2トンダンプカーが停まっています。
あんな大きな車に轢かれたら助かるわけがない・・・。加害者は誰なのかと目で探したけれど、どこにも姿が見えませんでした。

 呆然としているうちに渋滞車が続いている横の反対車線を逆行して救急車が到着しました。後部には一緒に乗せてもらえず、助手席に座らされ病院へと向かいました。渋滞の先頭に向かって反対車線を逆走しましたが、随分先まで渋滞が続いています。
 今まで経験したことのない不安と焦燥感のなか病院に到着し、すぐに蘇生の処置をしました。ここでも私は締め出され、ドアの隙間から様子を見ていましたが、30分程経った頃、医師が来て言いました。
「到着時既に心肺停止しており鼻から脳みそが出ている状態です。これ以上やっても遺体を傷つけるだけだから、機械を止めてもいいですか」
家族は他に誰もおらず、私が決めなければなりませんでした。

 そこから記憶は途切れ途切れです。救急隊員が息子が持っていた犬の糞の始末をする袋を黙って差し出したこと。テレビカメラを持った報道の男性が部屋を覗いたこと。笑顔で話をしながら処置している医師を不愉快に思ったこと。電話をしようと思ったけれど電話番号が思い出せず、電話帳を貸してもらっても数字が読めず、読んでもらっても指が震えて出来ず代わりに押してもらったこと。知らせを受けた担任の先生が病院のロビーに立っていたこと・・・。




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