事故後の記憶

 加害者との記憶
 事故の翌日加害者は雇用主の社長と妻の3人で来たが、社長の後ろに隠れるようにして立っている、普段着の男女2人が一体誰なのか最初は分からなかった。
 「帰ってもらえ!」 の夫の一言でその日は帰ったが、通夜と告別式の名簿には加害者の名前が記されていた。葬儀に来て下さった1人1人に心からの感謝の気持ちを込めて頭を下げたその中に、何食わぬ顔をした加害者がいたのかと思うと腹立たしかった。
 以来加害者が二度と来ることはなく、百箇日を迎えた翌日、大切な息子を殺した男が一体どんな人間であるのか知りたいと思った私は、1人で加害者の家を訪ねた。
 加害者は何も言わずに妻の後ろに立ち、妻が言い訳を並べ立てる。体調が悪い、いつも家で拝んでいる、保険会社に任せている・・・。
 話が通じる相手ではなく、心の底から落胆した。
 その後警察に告訴状を提出し、送検されたのは3月になってからだった。すぐに検察に面会を求めたが、担当の副検事は、忙しい、起訴するかどうかはまだ分からない、加害者と目撃者の話を聞いてからだと言い、私達は待つしかなかった。

 命日の1ヶ月前になり、ようやく起訴するとの知らせを受け、事故から1年を過ぎて、ようやく刑事裁判が始まった。
 第1回公判での罪状認否で、加害者は自分の罪を認めなかった。妻は加害者の体調が悪いと言い訳ばかり。加害者は嘘と自己弁護を繰り返し、裁判は長引いた。
 そして1年後の第9回公判でようやく結審となる。求刑禁錮1年2月に対し、判決はたったの禁錮10月、執行猶予3年だった。
 その後の民事裁判で、理解してくれた弁護士が加害者を追及、事故から3年経ちようやく加害者は自分の非を認めたかたちとなる。
 ここまで来れたのも、同じ思いをしてきた交通事故被害者遺族の方々の協力があったからだ。遺族は大切な人を亡くしたうえに、苦しい思いをし努力をしなければならない。

警察での記憶
 葬儀が終わって5日程経った頃、事故の詳細を知りたくて市の警察署を訪ねた。目撃者の1人に事前に話を聞きに行き、ある程度は分かっていたから具体的な質問も出来たが詳しいことは教えてもらえず、担当の警察官は加害者に同情的だった。
 「あの人はニトロを飲みながら仕事をしたはるんや」 「奥さんだって病気の時に運転するでしょう」 「また子どもを生んで下さい」
 何故こんな言葉が出るのだろう。失望して帰宅した。
 2ヵ月後、遺族調書を取るという約束の前日になっても警察から連絡はなかった。こちらから電話をし約束の時間に行ったが、同じ部屋で他の交通事故の調書作成も行われていた。事故を起こした人や被害者が入れ替り立ち替り呼ばれてくる。
「うちの子は怪我もたいしたことなくてよかったと思います」 そんな会話を聞きながら夫と次女と私は冷たいパイプ椅子に並んで座り、質問に答えねばならなかった。

信号機設置
 事故後自治会は慌てて信号機設置の要望書を市に提出した。近所の中学生は市長に手紙を書いてくれた。
 そして事故から10ヵ月後、信号機が設置された。稼動した日、家の近くから信号機を眺め、初めて信号の青い光を美しいと思った。
 息子の死が少しでも役に立ててよかったと思ったが、喜んでくれる人ばかりではなかった。
 事故を防ぐよりも自分の生活の方が大切なのか?そんなに迷惑なことなのだろうか?

日々の記憶
 事故後人と接するのが辛く、引き籠る日々が続いた。しかし他人に私達の辛さは分からない。
 特に学校の行事は辛かった。次女が事故後も学校に行っているのだからと思い参観に行くのだが5分とおられず、同級生達が演奏する曲が聞こえてくる、やけに明るい運動場を涙を流しながら横切って帰ったこともある。
 個々の先生方は別として、学校にとって息子の死は小さな出来事に過ぎなかった。
 カウンセリングを受けたりして少しずつ社会に戻る努力はしていたが、事故現場の近くに住み続けることが耐えられなくなり、2年後に思い出の詰まった家と地域を離れた。寂しかったが転居してようやく普通の生活が出来るようになり、初めて心から笑うことが出来た。
 しかしストレスから 感音性難聴 となってしまった。体は嘘はつけない。

社会との記憶
 社会は交通事故に対して甘いということが嫌と言うほど分かった。過失とは言え人を殺したのに、何故加害者が同情されるのだろう。お互い様の交通事故もあるだろう。しかしそこを歩いていた人が悪いという考え方はおかしいのではないか。
 運が悪かったから事故に遭ったのではない。交通事故は天災ではなく人災なのだから。




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